昭和五十三年七月二十六日朝の御理解


 御理解第九十八節
 心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時にはとりわけ平気でなければならぬ。おちついて静かに願え。


「心は神信心の定規」
様々な時、様々な事にあたらせてもらう時に、何でもない平穏無事な時には心も平穏であり、いかにも平常心を頂いているかのようにあります。
 なにか突発的な事が起こったり、難儀な問題にぶっつかった時に、始めて自分の平常心というものが、本当なもので無かったなあと云う事が分ります。
 その都度都度にいよいよ平常心を目指す。いつも心が、ここでは平気な心とおっしゃるのは何というですか、横着なという意味じゃないですよね。
 まあよく似た、ね。云うならばどんなに事があっても、しっぱりまあくしとるという。(知らないふりしているの意)大どな(横着の意)人がありますね。大ど者ち云います。
 こういう事をしでかしてから、しっぱりまあくしてからという。
そういう意味の平気じゃない。平気というのは平常心の事だと思う。
 とりわけ、神様に向かう時には、この平常心がなからなきゃいけない。ここでは、私くしが平常心を頂いておらないと、もうお伺ひなんか出来ません、ね。
 私くしはね、神様との間に交流する一つの、まあフィーリングというものも平常心の人でなければ本当なものが通うて来ない。感じない。
 幹三郎の肉腫の時に、伊万里の竹内先生がわざわざ御本部に、金光様にお願いに行って下さった。教会の三男、大坪幹三郎のお初穂に、肉腫という病気の平常の事が、お初穂袋に書いてあった。
 金光様が糖尿病で大変、この目が悪くなられて居られた頃ですから、それをこれはああ内腫(ないしゅ)ですかと云われた。肉と云う字を内と云う字に見られたのですね。でお届けから帰ってみえて竹内先生がお届けを出して頂きましたら、金光様が見違えられて「ないしゅですか」とお尋ねになりました。「いいえ肉腫で御座います」、と又申し上げたけれども金光様はああ内腫ですかとおっしゃったと聞いた瞬間、私くしの心の中にこりゃあ無い腫だと、私くしの心に決まったですね。
 勿論、「ない腫」等という病気はありませんよね。病名はありませんけれども、これはもう無い腫だとそういうそのこちらが平常心。
 もう、あれが死にはせんじゃろうかとか云ったように、例えば自分の子供が死ぬか生きるかと云ったような時でも、いうなら私くしの心は、思うてみると平常心で在ったなあと思んです。だから金光様の一言が、そのままが無い腫として受け止められた。
 どんな場合、どんな時で在っても心が平常心、でなければ次の神様との本当な手立て、交流がを計る事が出来ません。
 昨日の御理解を、昨日は二十五日の研修でしたから、改めて昨日の研修をさせて頂いた事でしたけれども。
 大山の矢幡さんが、大難を始めて無難であったとこう頭を撫でられた時に感じられたとこう。
改めて、これは大難を無難でお陰頂いたとこう感じられた、ね。それこそ、大変家族の多いい家ですけれども、家族それから近所に嫁入っとる、娘達までが晩には皆集って、ちょいと偉大なお陰頂いたのおじいちゃんと云うて一緒に御神前に出てお礼の御祈念をさせて頂いたとこういう。
 だからあのお話というものは、あのう私くしがね御神訓を読上げる前に手紙を皆さんに読んで聞いて頂いた。何を分って頂きたかったというと、大難を無難でお陰受けたという、おかげ話の所を聞いて頂くのでなくて、家族が揃うてですね。
 おじいちやんお陰受けられたですねと、そりゃああんた不が良かったったい、と言うような者は一人も居なかったという事なんです、ね。
 私くしは昨日は、一蓮托生という事を聞いて頂いてね、こういう生き方に家族中がならなければという例を申したんです、ね。
 一蓮托生、皆んなが「お陰」とこう云えれる見えれる、信心内容を自分のかかわりのある一家全部お陰を頂く事の為に、勢を揃えた信心が日頃出来ておらねばいけないよ、という意味で聞いて頂いた。
 ただ大難を無難でお陰を頂いたという所だけを、昨日研修の時に聞きましたんですよ。そしたらね、その大難を無難にでお陰を受けたという所だけを非常に強調するんですね。
 そうじゃあない、私くしが次に話そうとする事が、一蓮托生のお陰を頂いておる。そして又次にです、そういう特別なお陰を受けた時だけが一蓮托生ではなくてです、ね。なら文男先生の例を最後に申しましたように、ね。
 突発的な事故。全面的に自分が悪い、相手の車にぶっつけた車もこわれた、自分は無傷だったけれども、相手の方が病院に入らなければならないような事になった。どうぞよろしくお取次をという話を致しました、ね。
 もう二ケ月も、まあその前だったかも知れません。もっとかも知れません、けれども、家内がお夢を頂いておった。
 お父さんが事故を起こして相手の方が亡くなられた。それでその事を本人の所へお見舞に行こうとあのう、した所がそちらには行かんぞ。合楽の方へ道が二股になっとる、こちらは合楽行きと書いてある、こちらはその方の家。お悔やみにでんいかにゃあならんという道がこう別れとる。
 そこん所に立った時に、文男先生が合楽に行くぞと、そげなこつがあるもんですか、あなた。けれどもね、成程悲しい事ではあるけれども、それはお陰だというて、合楽の方を取ったというお知らせを頂いとりました、ね。
 それがお陰だという事をですね、云い切れれる信心、こりゃあ大変又、深い意味を持った事ですから、別にしたとしましてです。
 だから私くしはそういう事を聞いて居りましたから、必ず文男さんが信心でお陰で受けて行く、と云うふうにまあ昨日申しとりましたですよね。お陰にして行くと。
 昨日夫婦でお礼に出て参りました、ね。昨日研修の時にその事を話して居りました、ね。
 例えばそういう人に迷惑を掛けた事。それこそ心が云うならば平常心では無いけれどもね、一日一日時間がたった従って私くしの心は平常心に向かって居るという話をしました。
 実感です、ね。私くしが昨日お礼に出て参りました時に、ここで本当にお礼と思うとる証拠に、云うならばお初穂なんかでも、普通と違ったお初穂の供え方をさせて頂いて、その事に対してお礼の云えれる彼の信心を話しましたら。
 実は、私くしがそういう事故を起こした時にさあお礼、これがもし久留米の佐田さんならばね、もう次の瞬間にねお礼を考えなさるだろう、佐田さんの奥さんの方。けれどもこの神経は私くしには分らん。
 すばらしい事だけれども、私くしには実際には恥かしい事ながら分らんと云って居ります。
 けれども、時間が経つに従ってそのいわばお陰、おかげという心がだんだん強うなって来る。そしてその方の病院にお見舞いにやらせて頂きました。所がとてもお見舞金ども差上げる雰囲気がさらさら無かったというのです。
 相手の方は大変な金持ちだったそうです。だから僅かばかりの、お見舞金を持って行ったけれども、そのお見舞金の出せれれる雰囲気では無かった。
 その瞬間思うた事は、はあこれがお礼だと思うた。これは自分の為ではない言わば怪我をしておられる、怪我というのは、なんかお陰を頂かんと後遺症に成りはしないか、といったような心配がある為に入院しとられるのです。
 けれども、親先生は文男さんがすぐにお礼に出て来ましたよとこう云われた、けれども実は私くしは初めからお礼という思いは御座いませんでした。
 けれどもお見舞に行ってその雰囲気がなかった瞬間に、助かってもらわなければならない、自分の心にも平常心がだんだん取り戻された時に。ああこれがお礼だと、心に決まったと云うております、ね。
 平常心にだんだん還って行きよる。そしてまあだ正直の所本当の平常心ではありません。けれども私くしは確信を持っておる事はです、これがお陰になるという確信だけはあります。
 今はそこまですっきりしてませんけれどもという話をしてました。
私くしは思うのはね、そういう例えば、いかにも日頃は合楽の信心者の手本のように、いつも云われるから恥かしいと、自分で頭を掻きながら云うておりました
 う、うん。恥かしい事があるもんか、恥かしい事じゃあないよと、私くしはその場で申しました事でしたけどね、恥かしいこつじゃあない、ね。
福岡の大橋の奥さんが発表してましたが、もう最近は合楽の親先生の信心に、波長を合せようということに、一生懸命になっとりますという発表をしました。
 だから、文男さんの場合もです、私くしとの波長が合っておった証拠に、今朝の御理解を聞いてみれとわたしは申しました、ね。
 例えば、一蓮托生という御理解をです、矢幡さんの大難を無難にという程しのお陰を頂いた時にです、中に一人でもそれは不が良かったったい、という人が居なかったという事もさることながらです。
 これならば、まあまあ皆んなが信心頂いとるならば、やはりお陰頂いたと云うだろう。
 けれどもね、そういう事故を起こした時でもです、それをはあ、大難を小難でお陰頂きなさったとかいや、お陰に繋がるんだ、というような頂き方はと云うのは云うなら難しい。
 この二つが出来て、一蓮托生だと云う事だったですね。昨日の朝の御理解は、ね。信心しておっても次から次に難儀が続く。続く中にも神意を悟り御理解と頂いてからの信心。
 そして、又、売れた、又売れたというように、お陰を頂いて皆がお陰お陰と云うておる事と、これが一つになって一蓮托生。皆んなが一緒にお陰が頂いて行けれる世界。
 だから、云うならば昨日の朝の御理解に、文男さんの話と矢幡さんの話が一つになる事が無かったら、昨日の御理解は生きた御理解という事は云えない。
 そういう意味あいでも、私くしとの波長が合っておるから、こそだと云うふうに昨日は申しましたのですけれども、ね。
 波長が合っておってもこの事なんだ、ね。お気付けを頂いたとか罰かぶったとか、そういうもんじゃあない、ね。それでいてです、なら文男先生の心の状態が、本当の平常心に還って行って居る、ま様子をまあ感じさせて頂いたんですけれども、その事をあの済んでからお風呂にすぐ入りました。
 で文男さんが髭をあたってくれて、あのう居ります時に、あのう頂きます事が、この人が主役というて、後で私の背中を流して居る時に「この人が主役」という事を頂いたんです。
 だからお互いがです、ね。今日一日、私くしが主役と云ったような願いを持たなきゃだめです。主役である、為には上手にならにゃならん、責任がある。一挙手一動がね、もう云うならいつもクローズアップされて居る自分だという自覚が出来るのです。
 文男さんの場合なんか、何時も云うならばお陰の信心の手本のように云われるのは、何時もそれを感じて居るわけです。
 だからそういう例えば事故が起きた時に、恥かしいといったような事がま出た訳でしょうけれども、実はそうじゃあないんだ。だんだん分ってくるとそれがお陰であったという事に、はっきりしてくるんだよと。
 私くしは今日、平気な心で、落ち着いて願えと。これは神様に向かう時には尚更の事だけれども、日常茶飯事が、その平気な心でなければならん。
 平気な心というのは、横着な心というのでは無くてです、いつも神様を頂いておる事の喜びが、心の中に一つの安心をね、平常心を作っておる。所が平常心、有難いと思うておるけれども、何かが突発的に起こると、その平常心が本当な物では無かったなあと分って、ね。そして本当なものを目指して、本当なものを目指して、時間が経つに従って、だんだん平常心が頂けて来るようにです。そこには神様のね働きお受けての事である。
 初めからお礼をという気は無かったけれども、お見舞にやらせて頂いた。お見舞にやらせて頂いた所が、ね。とても僅かばかりのお見舞金どん差上げるといったような雰囲気ではなかった。もう全然そんな感じがしなかった。それはそうでしょう、相手はもう大変な金持ちさんだったらしいから。
 だからこれは、お礼にする事が御本人も自分もお陰頂く、始めて、自分の心の中に、お礼のお届が済んでいよいよ心の中は平常心に近ずいて来た。そういう、云うならば働きを受ける事が出来るんです、ね。
 これは大川に何とか云う、応接台専門の家具やさんが、福岡教会の総代さんが居られますが、ちょっと名前は失念しましたが、三回火事に合われた。もうこれは大変お陰受けられた方らしいですからそれも出来た訳でしょうけれども、火事の燃えとるとば見てから、あのう手帳に書かれる。
 その次は、どういう工場を建てようか、どう設計しようかと云うような事を書かれる。その一番上に御礼いくらいくらと書いて有ったとこういう。もう火事が燃えよるのを見ながら、神様への御礼が一番口にはためいたというお話を、吉木辰次郎先生からよくこの話は聞かせて頂いた事で御座いますすけれどもです。
 文男さんの場合はそんなひらめきは無かったと云うんですけれども、神様が本当な事へ本当な事へと、云うならば神様が、こう日頃の云うなら主役的なお陰を頂いて居りますからね。こうしなければおかしい恥かしい。この位の事は分ったとらにゃあ、という事をもう、神様が一緒に働いて下さって居るいうような事を感じますです、ね。
 私くし共の日頃の信心がです、云うならばね、私くしが主役と云うようなね、思いで信心をさせて頂くと、そういう働きを受ける事も出来る、又お陰も受ける事も出来る、又お陰で云うならばね、例えば何と申しますか、私くしが主役という事はもう、何時も気が気じゃ無い。
 脇役をする人、助演をする人達の事に、いろいろ気を使って行こうというのじゃなくてです、ね。
 主役が引回して行くのだ。それはどういう事かというと、私くしの心がですねいらいらしたり、心配でたまらなかったりというのではなくて、自分自身の演技の事だけに、思いを置いて行きよるなら自分の心の中に、ね。平常心を頂いておくと云う事より他には無いのです、ね。
 それだけ自分が主役であるという事になるとです。
それだけ全般にわたって、神様に打ち向かう心が生まれて来るです。神様の心に打ち向かうから、そのうち返ってくる心の状態を云うのは喜びであり平常心なんです。
 今日は、一つ皆さん、今日は私しが主役。という気持ちで、ね。本気で信心を、しかもこの平常心という所に焦点を置いてね。そして願いとしては、一蓮托生のお陰の頂けるれね。
 私しが主役、その末世に至る迄、枝葉に至るまでね。私くしの全神経ですね、そういう隅隅にまで、響いて行く事の為に、一蓮托生を願わなければならない、ね。いよいよ平常心を目指しての信心。
 それは、一見平気なと、教祖は平気と云う言葉で表現されて居りますがね。平気な状態が、何時でも、どんな場合でも頂ける信心を目指させて頂きたいと思うです、ね。                                        どうぞ